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供述調書

恋愛猥褻罪を犯した男女の取り調べ日記

寂しさとの付き合い方

「寂しい…」 

 

こう思う時が誰しも少なからずあるのではないか。

 

そう、かくいう僕自身も今絶賛寂しさに刈られているのは言うまでもない。

 

情けない、実に情けない!

 

「大の大人が何だ?寂しいだ?寝言は寝て言えよ!くそ野郎!」という輩が早速いるかもしれない。

 

でも大人だって寂しい時くらいあるんじゃないか。

そんな時大人たちはどう寂しさと付き合っているのだろう。

 

冷静に考えてみると

僕たちがこの世に生を授かった時から寂しさとの戦いは始まる。実に根の深い戦いなのだ。

 

赤ん坊は泣くことで自分の存在を親たちに気づかせる。

寂しいから泣くのではないかもしれない、

①おっぱいが飲みたい

②オムツの中がうんちまみれで気持ち悪い

③眠たいのにうまく寝付けない

こんな時もあるだろう。

※今、泣いておっぱいに触れられるのなら迷わず泣く。大声で咽び泣く。のたうち回りながら泣き続ける。

 

でもこれらに通ずるものは、やはり寂しさである。

 

空腹で今にも気が狂いそうなのにその横で

母親は有り余る乳房(ちぶさ)と乳の液を父親に惜しみもなく注いでいる、

 

「僕のおっぱい!」

 

そう、赤ん坊の涙は自分の空腹に気づいてもらえない寂しさ故の涙。おっぱいの為の涙。

 

糞尿まみれのお尻に気づいてもらえない寂しさ。うんちの為の涙。

 

こうして赤ちゃんは寂しさを自らの生命を脅かす敵としてとらえ、泣くということで周囲に救いを求める。

 

自分に新しい弟、妹が出来た時。

またこれも寂しさとの戦いだ。

今まで一身に注がれ、自分だけに向けられていた父、母、じいじばぁばの愛が奪われていく。

 

「○○くんはお兄ちゃんだからちょっとくらい我慢できるよね~」

 

そんな風に諭されながら、指を加えたまま自分への興味、感心が波のようにサーっと引いていくように感じる。

 

自分の方が先にその膣から出てきたんだ!

お前が通ってきたその(産)道は俺が先に通ったんだ!坊や通行料ってわかるかい?

 

とつぶやき、長年吸い殻からの煙で黄ばんだバーの天井を見上げながらバカラのグラスに入ったオンザロックをゆっくり右手で回す。

 

そう、自分に向けられていた愛が離れていくと感じた時、感心をよせてもらえなくなった時、人はまた寂しさを呪う。

 

また時が経ち恋をし、初めて彼女彼氏が出来る。

性の悦びを知ると同時にまたしても寂しさと嫉妬に苛まされ僕らは生きてきた。

 

独占したい。もう同じてつは踏まない。

おれが独占したるんや!出雲駅のわんこそば並みに俺が買い占めたるんや(桃鉄知らない人はごめんなさい)

と、息を荒げ、チンのポーとマンのピーで馬鹿になる。

 

人生初めてのセックスで女をイカせて煙草に火をつけるようなハードボイルドたちはこの世に存在しない。

 

かくいう僕も中学生、高校生の時分の恋は甘酸っぱく目も当てられない程に恥ずかしい。

※今も恥態をさらしているという意味では変わりはないが…

 

彼女が男の先輩や友達と話すだけでやきもちをやき、携帯の待ち受けにしていた二人のプリ画像がベッカムに変わったことにショックを受けた。

 ※ベッカムヘアーが一世を風靡し、その甘いマスクに日本中が湧いた中、「ベッカム氏ね!」という言葉を吐いた日本人はおそらく僕が初めてなのではないか。

 

耐え忍ぶことをせず、自分を省みることもせず、彼女に「会いたい」だの「好き」だの自分の一方的な感情を押しつけていた。

 

寂しさから逃れたいという気持ちが、独占という言葉に変わっただけで、何も変わらず一時の心の平静を保っていた。

 

寂しさから逃れようとすればするほど

自分の気持ちを一方的に押し付ければ押し付けるほど彼女たちは僕から去っていった。

 

そして数々の失敗から人は学ぶ。

 

僕たちは社会に出て、仕事をし、自分が働いて産み出した何かしらの価値に等しいだけのお金を得る。

 

そこにはモラルやマナーというものが存在し、相手をおもんばかる心があり、建前という美徳があり、特に日本では個よりも集団の輪を重んじる。

 

こうして僕らはその場に合わせ耐え忍ぶことを学ぶ。

 

並行してプライベートにおいても好きになる相手や、タイプや理想、相手との距離感も変わってくる。

相手を思いやることを知る。

 

仕事でも趣味でも何かに熱中し、寂しさなんて感じないこともあるだろう。

 

スマートな男に憧れ、

自分の感情をいたずらにさらけ出すことをやめた。

 

そうすると不思議なことに、何故か自分が求められる側に変わっていた。

 

無闇にやきもちをやくことをやめると、自分がやきもちをやかれる方になった。

 

好き好き散らかすのを辞め、場をえらんで伝えると、自分が好き好き言われるようになった。

 

こうして僕は相手から求められることで寂しさと決別した。  

いや、つもりになっていた。

 

表面上はそうでも、内面は何も変わっていないような気がする。

 

彼女「今日は友達と飲んで泊まりにいくね」

 

僕「うん、仕事も毎日頑張ってるんだから今日は美味しいもの食べて飲んで沢山笑って楽しんでおいで(ニコッ)」

 

脳内(えっ、誰と?男?泊まり?なんかいつもより露出多くない?えっ、まさかパンパン?)

 

僕は自分が求められることで寂しさを見てみぬフリをしていただけで、寂しさという黒いものを明るい部屋からただ暗い部屋に移しただけであり、追いやったつもりが実は同じ部屋にずっと一緒にいたのだ。

 

寂しさからの解放、これは自分が永い眠りにつくまでつきまとう永遠のテーマのような気がする。

 

もちろん寂しさにも色んな寂しさがある。

 

家族や友達やペットを亡くした時、

地元を離れる時、

恋人と別れた時、

一人で立ち寄ったお店で隣で楽しそうな他人を見た時、

残業でクタクタになって会社を出て冷たい風の中駅まで歩く時、

真っ暗な散らかった部屋に帰ってきた時、

「ただいま」と誰もいないのに声を出してみた時、

ふとんの中に入って横に柔らかい肌の彼女がいればいいななんて思う時。

 

自分の生き方次第で寂しいと思うことがこの先増えるのかもしれないし、減るのかもしれない。

 

単純に年を重ねていけばいつしか死別という形で別れを迎えることも増えると思う。

 

やっぱりどんな相手であれ、自分の人生のなかに登場してくれた相手にどう頑張っても2度と会えない、顔すら見れないと思うと寂しいと思ってしまうのではないだろうか。

 

でも明確なことは、

寂しいと思う場面に遭遇した時、

僕たちはそれを口にする機会が

減っていくということだと思う。

 

言葉に出さない代わりに

歳をとって涙もろくなるというのはよく聞く話だが、そこで流す涙は自分が赤ちゃんの時に流した涙とは別のものだろう。

 

抱えたもの封じ込めたもの見ないようにしてたもの、それらが溢れた時に涙を流すことで自分の中のバラススを保っているのかもしれない。

 

自分の寂しさを誰かや何かに押し付けるのは簡単だが、自分で噛み砕いて向き合っていくのは難しい。

 

 

家族や友達と過ごす時間を作るもよし

一心不乱に汗を流すもよし

お酒の力を借りるのもよし

仕事に没頭するもよし

 

そして自分の寂しさと向き合ってくれる人やモノは自分自身を除くと本当にに希少であることに気付くし、換えがたいものだ。

 

何気ない一言に救われることもあるだろうし

逆に突き放してくれることで強くなることもあると思う。

 

だから誰にも相手にされない、

自分は1人だと感じる時、

そういう時こそ誰かに優しくありたい。